暮らしと音楽の「密」な関係。 vol.3- フィギュアスケートはアート? エンタメ? –

前回は「インストの音楽を難しいなんて思わずに、まずは聴いてみよう」という提案をした。しかしまだ頭上に疑問符を浮かべている人がいるようで、私のところにも質問が届いた。

「ジャズって、楽しく聴いてもいいんですか?」

ガーン、あるいはズーンという衝撃。

まだそんなにも敷居の高い音楽だと思われていたのか! もしかして「ジャズ喫茶」と聞くと、いまだにタバコの煙が蔓延する狭い室内で、一言たりともしゃべることが許されず、ただただ薄いコーヒーを飲まされる……という拷問のような場面を想像される方が多いのだろうか。


当時の音楽的な流行もあって1960年代にはそのような店も多く、2000年頃までは規律の厳しい店が点在していたように記憶している。しかし最近は、そんな厭世的なことをやっていては客足が遠のくばかりだからどこも真似しない。そもそもジャズという音楽に人を縛る効力はなく、むしろ、聴く者を束縛から解放する音楽であるはずだ。

【 これだって、立派なジャズだ 】


例えばフィギュアスケート。
あの競技を観るのに、万人が技の名前を記憶し、ジャンプの回転数を目で追っているだろうか。おそらく否。観客は表現者の心中に共感し、キャラクターに惹かれており、技巧的なところまではさほど詳しくない方も多いはずだ。それでも競技を楽しみ、一挙手一投足に感動している。

その他にもバスケやサッカー、カバディにだって技術的な観点はある。けれど多くの人がプレイヤー的な難度を度外視して楽しんでいる。見る側からすれば、多くはエンタテインメントなのだ。視覚/聴覚的に受け取ることのできる情報の差異はあるにせよ、音楽も本来はそうあるべきだろう(何がエンタメであるかという議論はなされるべきだが)。

【 ジャズはテニスだってできる 】


壁を作りさえしなければ、音楽は聴き手のイマジネーションを喚起することができる。ジャズもクラシックも、パンクもヒップホップも楽しめばそれでOKだ。

text by Koichi Otomo


【筆者プロフィール】

大伴公一 | Koichi Otomo
(ミュージック・ソムリエ / 愛猫家)

立命館大学を卒業後、音楽専門誌ジャズライフの編集を経てブルーノート・ジャパン/モーション・ブルー・ヨコハマに勤務。2018年にはモントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパンのプロデューサーに就任。現在は文筆業の傍ら、ジャズ番組のナビゲーターや横濱ジャズプロムナードのプログラムディレクターも務めている。ミュージックソムリエ。

ページトップに戻るGO TOP
フリーダイヤルアイコン0120-323-432